聖徳太子 574〜622
大和時代末期の政治家。用明天皇の子であり、ウマヤド皇子と呼
ばれる。何十人もの人々の話を聞き分けるという伝説をもっている。
政治では外交にも力を入れる。当時、東アジアの国々との国交は不
安定であった。
593年、推古天皇の摂政となり、内外の国政にあたるようになる。
政治の実権は蘇我馬子が握っていたが、607年、小野妹子を随に
使わし、国交を開いた。その時、太子から煬帝(随の皇帝)に送った
親書には…。「日出づる処の天子、日没する処の天子へ」と書き出
し、大帝国隋と小国倭が対等であるかのような、この物怖じしない
大胆さには圧倒される。しかし、隋の煬帝にとってはおもしろくない。 天子を名乗れるのは中国の皇帝だけだというのである。東アジアで
は昔から、中国の皇帝を中心に朝貢国が存在していた。それがなら
わしであった。
大陸文化を積極的に取り入れ、日本の国家制度の基礎を固めた。
又、十七条憲法には「和を以て貴しと為す」とある。出典は論語と聞
くが、日本人の心にぴったりはまる言葉である。
      
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