千利休 1522〜1591
茶の心は楽しむこと、もてなしの心である。利休は堺に生まれ、茶 人武野に茶を学び、「宗易」の号を授けられた。当時、一流の茶人と
交流をもち、若いながら名を博した。そして、名だたる茶人と共に織
田信長に用いられる。後に、羽柴秀吉に「利休」の号を授かる。
戦国大名にとっては戦場が日常であった。その非日常として茶を
たしなむことは、唯一心安らぐひとときであったのであろう。当時、茶
人はどこでも、もてはやされた。一種癒し系文化人でもあった。その 中でも政治的に深く関わりをもつようになったのが、利休であった。
秀吉の側近として権力をふるうようになった利休のライバルは石
田三成である。何かにつけて利休にぶつかってきた。そのために
利休は謹慎の処遇にもあった。
利休が切腹自刃した原因には、利休が禅の修行をした大徳寺の
参門の普請を秀吉に咎められた説、又、利休の娘を秀吉にさしだす
ことを拒否したという説もある。いずれにしろ、真相は闇の中である。
茶人としては奇異な幕切れであったが、茶の心・非日常の心は今 日にも受け継がれている。
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