板垣退助 1837〜1919
土佐藩に生まれ、山内容堂に仕える。攘夷論者である。戊辰戦
争にて白虎隊と戦い武功をあげる。
征韓論で下野した板垣は政府に対して、「有司専制」(薩長専制
)を厳しく批判し、人民の自由と民権の確立が必要であると「民選
議員設立建白書」を提出した。このことが新聞に掲載され、議会設
立の世論が高まってきた。これが自由民権運動である。
まず、板垣は立志社を設立した。それは愛国社の主軸となって
いった。1881年、政府は「国会開設の勅諭」(9年後の明治23年を
期に国会を開設する)を発布した。ここに自由民権運動の勢いが
ピークに達しようとしていた。しかし、政府は一方で自由民権運動
を弾圧してきた。条例を改正して、暴動に繋がる運動を厳しく取り
締まった。
板垣は直ぐに、日本で初めての政党、自由党を結成した。翌年、
遊説の途中に、暴漢に襲われ斬りつけられた時、「板垣死すとも 自由は死せず」と叫んだ。やがて、国政の重臣を務め、1898年に
政界を引退する。国会開設をするにあたり、後世のために苦労を
した日本人である。
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